ある方は恐怖感を起す思出を紙に書き込んで、その紙を燃やすべきと勧めます。その意見を聞いたお友達に次ぎの返事を書きました。潜在意識の専門家でないのですが、私の信念について、書きました。
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「妄想だらけの私」は妄想を迎える態度について、書くことは最も可笑しいでしょう。でも、私の意識を自分に明確にするためだけでも、書かせて頂きます。
思出を意識するために文章にするのはいいと思います。しかし、その内容は案外と参考になるでしょう。思出の中のテーマは日常生活との関係を意識すると自然に気持ちは変って,自然に意識までかわります。思出をかいた紙を燃やさなくても,人生は違った意識に合わせるように成ります。
私の燃やした紙の話をさせて頂きたいです。合気道の先生は審査を重要とします。でも初段の前、私にとって、級を上がることは私の人生と関係ないと感じました。表彰を見て、不自然な圧力を感じて、級の審査の何ヶ月後、表彰を燃やしまた。でもこの間、初段の表彰を額縁に入れました。かかっている所は隠れているが,無意識に昇段に不自然な重みを与えました。道場への責任などを以前よりも重視するようになりました。基本的に私は健康のために合気道を習っています。先生にとって、道場経営に並んで、生徒の昇段はもっとも大事な目標です。初段の審査が終って、私は先生の見方になって、自分に無理でも、深い咳をしながら、演舞をやりました。それで、気管支炎になりました。これは先生の責任ではありません。私の状況判断の間違いです。
初段の表彰を燃やすべきでしょうか。それとも、額縁に掛かったままにして、もっと深く考えるべきでしょうか。迷っているが、その矛盾を感じながら,何か重要なことに気がつくようになるでしょう。話で説明出来るような変化でなくても、私の態度に変化を期待しています。
元のテーマに戻ります。私の思出は全部妄想としても,潜在意識からの妄想が何回も瞑想、夢などに表れていると「同じテーマが又出てきたな」と気がつきます。すると,日常生活にもそのテーマは表れていると気がつきます。どうも、妄想がしつこいので困るほど、私の意識に深い変化は可能だと期待しています。それとも私は弱いので、しつこいなのか、分かりません。その疑いを無視して,日常生活、日常生活の中にその妄想に気がつくことによって、そのテーマの影響力が自然に弱ってくると信じています。
潜在意識に隠れている妄想は実にしつこい存在です。一日中、深呼吸をして天と地のエネルギーを取り入れて、妄想吐き出しても、まだ、根が張っています。でも深呼吸をして、吐き出すほうがいいと思います。つまり,吐き出すことは潜在意識と繋がります。自然だし、いつでも深呼吸をしても,無理はありません。思出を書いて,燃やすと質が違います。
意識から来る変化はどのようなものでしょうか。曹洞禅宗の先輩からで聞いたことを思い出します。「曹洞禅宗の瞑想は霧の中にいるといつの間にか濡れてしまいます。」勝手な解釈ですが意識はその霧のような物となります。思出などを簡単に燃やすと(私の初段の賞状のように)霧に濡れることもありません。逆に,妄想のテーマの影響力を感じなければ、日常生活が何れ程潜在意識に左右されているままで、気が着きません。妄想について意識がないと濡れないし、困らないので、平凡な明るい日々を送られるので,早く燃やしたほうがいいと言う人もいます。
今貴方は瞑想の呼吸法が楽になられたと同じように、気がついた妄想のテーマによって意識が強く成って,その意識が人生を濡らすと不思議なことですが,いつの間にか不自然だった妄想の影響力が消えます。しかし、私の場合、消えた時にもうその問題を忘れがちなので,私はこの過程について確信をもつことも出来ません。そこで,自分の新意識に誓うこと等を紙に書いて、それを燃やすと勧める人もいます。その場合,燃やす意味は以上の消す意味と正反対です。おそらく私は瞑想と呼吸法を続けるだけで,自分が変化した証拠のなしで、生きるでしょう。
霧の中に生活している私は何も燃やさなくても意識の霧を信じて、困るでも,困ったことを意識している努力を続けています。すぐ明るい人にならないが、他人が私の人生を見るためには生きていません。ありのままで居ます。
その内あるいは、次ぎの人生に妄想の根の深さに明るい気持ちで居られるように成るでしょうか。ありのままも明るく認められるでしょうか。その可能性を感じるだけでも,意識の変化は可能でしょうか。
私が燃やしたい紙の話をさせて頂きたいです。合気道の先生は審査を重要とします。でも初段の前、昇級は私の人生と関係ないと感じました。審査の後、表彰を見て、不自然な圧力を感じて、級の審査の何ヶ月後、一枚づつ表彰を燃やします。でも去年、初段の表彰を額縁に入れました。かかっている所は隠れているが,無意識に昇段に不自然な重みを加えました。道場への責任などを以前よりも重視するようになりました。基本的に私は健康のために合気道を習っています。先生にとって、道場経営に並んで、生徒の昇段はもっとも大事です。初段の審査が終って、私は先生と同意して、自分に無理でも、深い咳をしながら、裸足で演舞に参加しました。その晩、熱をだして、結局、気管支炎となりました。これは先生の責任ではありません。私の状況判断の間違いです。
表彰を燃やすべきでしょうか。それとも、額縁に掛かったままにして、もっと深く考えるべきでしょうか。迷っているが、その矛盾を感じながら,何か重要なことに気がつくようになるでしょう。話で説明できるような変化でなくても、私の態度から無駄を省くことを期待しています。
元のテーマに戻ります。私の思出は全部妄想としても,潜在意識からの妄想が何回も瞑想、夢などに表れていると「同じテーマが又出てきたな」と気がつきます。その過程を繰り返すとそのうち、日常生活にもそのテーマは表れていると気がつきます。どうも、妄想がしつこいです。妄想に困らせているほど、深い変化は可能だと期待しています。それとも私は弱いので、しつこいなのか、疑問を持ち続けています。疑問を無視して,日常生活の中にその妄想に気がつくことによって、そのテーマの影響力が自然に弱ってくると信じています。一回切り,お寺で凄いお坊さんと瞑想した時にそんな経験があります。それは短い間に妄想が消えたから、明らかでした。普通は分からないうちに消えます。
でも、潜在意識に隠れている妄想は実にしつこい存在です。一日中天や地のエネルギーを取り入れながら、深呼吸をして、今こまっている妄想を吐き出しても、まだ、根が張っています。でも深呼吸をして、妄想を吐き出すほうがいいと思います。つまり,呼吸は潜在意識と繋がります。深呼吸は自然だし、いつでも深呼吸をしても,無理はありません。
意識から来る変化はどのようなものでしょうか。曹洞禅宗の先輩からで聞いた言葉を思い出します。「霧の中にいるといつの間にか濡れてしまいます。」勝手な解釈ですが,意識はその霧のような物に溶き込みます。思出などを簡単に燃やすと(私の初段の賞状のように)妄想である念は霧に濡れることもありません。しかし,妄想のテーマの影響力を自分で感じなければ、日常生活が何れ程潜在意識に左右されているのか、気が着きません。妄想の意識がないと濡れないし、困らないので、平凡な明るい日々を送られるので,早く燃やしたほうがいいと言う人もいます。
しかし、毎日瞑想と呼吸法を続けて,楽に成られたと同じように、気がついたことに妄想の意識を濡らすといつの間にか不自然だった妄想の影響力が消えます。しかし、私の場合、消えた時にもうその困った妄想を忘れがちなので,私はこの過程について確信をもつこともできません。そこで,自分の新意識に誓う言葉等を紙に書いて、それを燃やすと勧める人もいます。その場合,燃やす意味は以上の消す意味と正反対です。
霧の中に生活している私は何も燃やさなくてもを意識の霧パーワーを信じて、日常的に妄想に粘り強い根に負けたまま,困ったことを意識している努力を続けています。明るい人にならないが、他人が私の人生を見るためには生きていません。ありのままで居ます。
その内あるいは、次ぎの人生に妄想の根の深さに明るい気持ちで居られるように成るでしょうか。ありのままも明るく認められるでしょうか。その可能性を感じるだけでも,意識の変化は可能でしょうか。
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