Nit-ac を使っている患者はあるう知人を肉親でいます。この嫌みのため、彼にはは慈悲心を表せません。この嫌みが気になった、患者と話す時に必ずこの人の文句を訴えます。同じように,彼女も子供の頃、患者は愛情が足りなかったと深く感じっています。でも彼女は目の前に居る人の内面生活と自分の内面苦しみに関係を感じません。
Nit-acが効く人はよくこのような憎しみを抱きます。この方は外見では美しくて、魅力のある人です。しかし、身体では、局所で激しい炎症が起ります。心と身体は炎症に弱いです。
この嫌な人に慈悲心を表すように,稽古して下さいと私が患者さんに頼みました。愛されなかった自分は大人になっても、中心にその愛されなかった子供を抱いています。よく、自分の内省的な子どもを抱きなさいと言うでしょう。抽象的な内省的な子どものイメジー を抱くよりも、目の前にいる苦しんでいる人の内省的な子ども のほうが抱きやすいでしょう。彼の外面は嫌けれども、内面はきっと自分と同じような愛情が足りない子供がいるでしょう。なぜならば,慈悲心が足りないのは、人類の子供の頃の大半です。
一般には患者の精神指導をしない方がいいと思いますが,この方は精神生活を大事にしています。瞑想,自覚だどによって、このような患者は精神指導をレメディの効果をより深く効かせるのは私が何回も以前から見ているので、精神の話にはなりました。
慈悲心の話になると観音様になりたいと彼女は想像しました。なぜならば、観音様がいつも彼女を助かって下ださるのです。仏教の話でわ、観音様はこの難しい苦しみの多い世の中に残りました。慈悲心を感じて、成仏しないで、残りました。だから、慈悲心が欲しい人は観音様にお祈りします。でも、私たちの修行は足りないと私が反論します。簡単に観音様になれなれません。理想になろうと思ったら、がっくりするだけでしょう。
その前の話題に野菜料理で失敗した話をしていました。そのテーマを使って、我々は観音様でないので、失敗していいでしょう。人類の多くの人と同じように、子供の頃を十分愛されなかった。従って,慈悲心を表すのは難しいでしょう。受けていない慈悲心を他人に表し難いので、結果に不満になる可能性が高いです。この関係のない、嫌な人を野菜と考えて下さいと言いました。この嫌な人に慈悲心稽古をして下さい。失敗したら,うまく料理出来なかった野菜と同じように,その失敗の記憶としてを捨てなさい。何回も不満な慈悲心を修行して記憶を捨てて、あるいはそのまずい料理を食べて、そのうち、愛される人は自分にとって嫌な事をするので、慈悲心はうまく表せるでしょう。私はそのような夢を抱いています。
もしかしたら,レメディのNit-acが精神に効くまで待つべきという人がいます。Nit-ac は人を憎む傾向があるとよく知られています。確かにこんな長い話は無駄かも知りません。しかし、ある精神的のレベルに達した人なら、レメディの力で、精神的な発達を促す事は可能だと信じています。患者は若いのに、精神生活に一生懸命です。このような人はとても希望があると私は信じています。
また、この話は自分のためでもあります。こんど嫌な患者が来る時に上記のように修行するようになりたいです。自分の内省的な子どもに慈悲心を表すのは、患者と自分の精神稽古が出来るように彼女と話したかも知りません。
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